衆生本来仏なり

衆生本来仏なり

『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』

この言葉は、白隠禅師の『坐禅和讃』の冒頭を飾る、禅の人間観を象徴するフレーズです。

では、白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師は私たち「衆生(生きとし生けるもの、一般の人々)」をどのように見ていたのでしょうか。

1.「水の中にいて『喉が渇いた』と泣く者」

白隠禅師は「衆生本来仏なり」のあとに、「水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし」と続けました。

衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の他に仏なし

人間は誰もが本来、生まれたときから仏そのものである。水と氷のようなもので、氷の親が水であるように、人間の中にこそ仏性があるのだ

そしてこれに続けて、こう観察します。

当処を近きに尋ねねば 遠く求むる儚さよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなる

白隠の目から見れば、人間は「すでに豊かな水(幸せや仏性)で満たされているのに、『喉が渇いた、水がない!』と叫び回っている愚かな者」に見えていました。
外に幸せや答えを求め、他人と比較して勝手に苦しんでいる姿を、もどかしく、そして憐れんで見ていたのです。

2.「暗闇の中で迷走する病人」

白隠自身、若い頃に激しいノイローゼや体調不良(いわゆる「禅病」)に苦しみ、それを克服した経験があります。そのため、庶民の苦しみを決して上から目線で見下すことはしませんでした。

彼は、人々が欲望や怒り、執着という「心の病」に冒され、闇闇の中で自分からドブに飛び込んでいるような状態に見えていました。

  • 勝手なことを言われて怒る心
  • 他人を羨む心
  • 「自分だけが正しい」と思い込む心

これらによって苦しむ人々を、白隠は「悪人」として裁くのではなく、「自分の中にある宝に気づけないでいる病気の人(苦しみの渦中にいる人)」として温かい、しかし現実的な目で見つめていました。

3.「だからこそ、何としても目を覚まさせたい対象」

白隠禅師の観察の真骨頂は、「呆れつつも、絶対に見捨てない」という強烈なパッションにあります。

「みんな本来は素晴らしい仏なのに、どうしてそんなにくだらない妄想で自分を傷つけているんだ!」という情熱があったからこそ、彼は難解な漢文だけでなく、庶民にもわかるように歌(和讃)を作り、ユーモラスな絵(禅画)を描き、各地を巡って分かりやすい言葉で説法を続けました。

白隠が考案した有名な公案(禅の問い)に「隻手音声(せきしのおんじょう=片手の拍手の音を聞け)」というものがあります。両手なら音が鳴るが、片手ならどんな音がするか?という問いです。

頭の理屈(「あの人が悪い」「私が正しい」といった二元論)で考えている間は絶対に解けないこの問いを突きつけることで、人々の「思い込みの頭」をガツンと殴り、目覚めさせようとしたのです。

もし、誰かに「勝手なことを言われて苛立ってしまう」ことがあったとします。

白隠禅師から見れば、
「勝手なことを言ってあなたを怒らせてくる相手」も、「それに対して思わず苛立ってしまうあなた」も、どちらも『水の中にいながら喉が渇いたと騒いでいる愛おしい仲間(衆生)』なのです。

「なんだ、相手も私も、自分の中の宝物を見失ってウロウロしている者同士なんだな」と一歩引いて見られたとき、白隠禅師が目指した「穏やかで自由な心(本来の自分)」に、そっと戻ることができるのかもしれません。