禅語「喫茶去」

『喫茶去(きっさこ)』

「まあ、お茶でも一杯飲んでいきなさい」という意味ですが、現代の「お茶でもどうですか」と、その意味合いはどう違うのでしょうか。

現代の「お茶でも」は、「社交のツール」として使うことが多いと思います。場を和ませたり、本題に入る前のクッションにしたりする役割です。

禅における「喫茶去」は、唐時代の趙州(じょうしゅう)禅師のエピソードが有名です。

相手の身分や、知り合いかどうかは関係ない。趙州はただ一言「喫茶去(お茶を飲んで去れ)」とだけ言いました。

これは「誰に対しても分け隔てなく接する」という平等心を示します。同時に、「理屈をこねる前に、今目の前の一杯のお茶に全存在をかけろ」という、極めて鋭い突き放し(あるいは引き戻し)でもありました。

現代の「お茶でも」には、「仲良くなろう」「情報を交換しよう」といった、「その先の目的」に意識が向いています。

禅の「喫茶去」は、「今、お茶を飲む」という行為そのものが完結した目的です。

喉を潤す感覚、茶碗の温かさ、お茶の香り。それ以外に何も持ち込まず、ただその瞬間に成り切ること。

「去」には、「さあ、お茶を飲め(それだけで十分だ)」というニュアンスも含まれています。

熱いお茶を飲んで「熱い!」と感じるその直接的な体験の中にこそ、真実があると考えます。

形は同じ「お茶を勧める」動作ですが、その背景は、「少しずつ色を変えている」と言えるかもしれません。


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