
A calm and steady mind, free from turmoil.
「平常心是道(びょうじょうしん これ どう)」は、唐代の禅僧・南泉普願(なんせんふがん)とその弟子・趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)の問答に由来する、非常に有名な禅語です。
ここでいう「平常心(びょうじょうしん)」とは、私たちが普段使う「緊張せずにリラックスした状態」という意味だけではありません。
ここでの「平常」とは、「波風の立たない平らで常なる心」、つまり「特別なことをしようとせず、計らい(偏見・とらわれ・意図的な作為)のないありのままの心」を指します。
つまり「平常心是道」とは、「どこか遠くや特別な修行の中に悟り(道)があるのではなく、日常のありのままの心で、目の前の暮らしを丁寧に生きることこそが、そのまま真実の道である」という教えです。
南泉禅師が言った「向かえば即ち背く」とは
動揺や不安、焦りを消そうとするとき、つい心の中で「平常心、平常心……」と念じてしまいますよね。この時、心の中では次のようなことが起きています。
- 「動揺している今の自分」を打ち消そうとしている(自己否定)
- 「平常心でいるべき理想の自分」を無理に作り出そうとしている(作為)
つまり、「平常心にならなきゃ」と意識すればするほど、「あせっている自分」と「平静になろうとする自分」の葛藤が生まれてしまい、かえって心の中に波風を立ててしまうのです。
南泉禅師が言った「向かえば即ち背く(求めようとすれば遠ざかる)」とは、まさにこの状態のことです。
では、動揺した時はどうすればいいのか?
禅の考え方では、「動揺してはいけない」と力むのではなく、次のように捉えます。
- 「あ、今自分は焦っているな」「怒っているな」とありのまま認める:
「平常心でいなきゃ」ではなく、「いま動揺しているんだな」と自分の状態を素直にそのまま観察します。
- その感情をコントロールしようとせず、ただ放置する:
動揺や不安を「消そう」と戦うのをやめ、「そういう気持ちが湧いているな」と景色のように通り過ぎさせます(「非思量」の姿勢と同じです)。
怒りや焦りが湧いたときに、「あぁ、いま心が揺れているな」とただ客観的に気づいている静かな意識。
実は、その「気づいている意識」こそが、最初から揺らいでいない本当の平常心です。
無理に平静を装うのではなく、「揺れている自分も含めて、まあそういうこともあるか」とそのまま包み込んであげること。それが、本当の意味で「平常心」に立ち返る一番の近道です。
「落ち着いて」=「まずは呼吸を整えて、その波が去るのを静かに待つ」
人は不安や焦りが湧くと、パニックになって「なんとかしなきゃ!」と余計な行動を起こしたり、自分を責めたりして傷口を広げてしまいがちです。
「落ち着いて」という言葉も、心を力ずくで押さえつける命令ではなく、「大丈夫、いま湧いているその焦りや不安を、まずはそのまま『落ち着いて』見つめよう」という優しい眼差しになれば、とても温かい言葉になります。
湧き上がってきた不安や焦りを、「こんな感情になっちゃダメだ」と追い払うのではなく、
「あぁ、いま不安なんだな」 「焦っているなぁ」
とただ静かに認めて、嵐が通り過ぎるのを待つように、そっと寄り添って流してあげる。
「波を消そうとして海を叩く」のではなく、「波が静まるのをただ砂浜でじっと眺めている」ような、そんな感覚かもしれません。
自分に対しても、誰かに対しても、そのように「感情が過ぎ去るのを待てる心の余白」を持つことこそが、まさに生きる中での「静かな安心」であり、「平常心」そのものなのだと感じます。
