
An irreplaceable day
「変えられない外側の現実」ではなく、「それを受け止める内側の心」にスポットを当てるのが、この言葉の真髄です。
「日々是好日」をより深く理解するためのポイントは3つあります。
1.「好日」を決めるのは天気や出来事ではない
私たちは普段、自分にとって都合が良いこと(晴れ、褒められる、順調)を「良い日」、都合が悪いこと(雨、怒られる、トラブル)を「悪い日」と区別しています。
しかし、雨が降ることや相手が勝手なことを言ってくるという「事実(事象)」そのものには、良いも悪いもありません。
「雨=嫌なもの」「トラブル=悪いこと」と意味づけをして苦しんでいるのは、自分の心です。「どんな天気や出来事であっても、それをどう味わい、どう生きるか」という心構え次第で、どんな日もかけがえのない「好日」に変えられるという意味になります。
2.「いま、ここ」をまるごと引き受ける
禅の境地では、目の前で起きた出来事に対して「あの時こうしていれば(過去への後悔)」とか「明日どうしよう(未来への不安)」と頭の中で愚痴を言っている状態を「迷い」と捉えます。
- 雨が降ったら、ただ雨を聞く。
- 風が吹いたら、ただ風を感じる。
- アクシデントが起きたら、いま自分ができることに100%集中する。
起きてしまった事実をこねくり回さず、あるがままに受け入れて「今日という一日」を精一杯生き切ること。それが「日々是好日」の本来のあり方です。
3.一回きりの「今日」を愛おしむ(一期一会)
「日々是好日」は、茶道でもとても大切にされる言葉です。
二度と戻らない今日という日、目の前の出来事、目の前にいる人。それらがどれほど思い通りにならないことであっても、「二度とない二度と逢えない瞬間」としてまるごと抱きしめる姿勢のことでもあります。
ですが、理不尽な事故や災害に巻き込まれて、大切な人を亡くしたり、被害に遭ったときでも、「あるがままに受け入れる」ということでしょうか?
いいえ、大切な人を理不尽に奪われたり、過酷な被害に遭ったときに、「これも運命だから」「受け入れよう」と無理に納得させたり、感情を押し殺したりすることが禅の言う「あるがまま」ではありません。
この極限の状況において、仏教や禅が語る「受け入れる」とはどういうことなのでしょう。
「悲しみや怒り」をそのまま感じること自体が「あるがまま」
一番の誤解は、「受け入れる=物分かりの良い人になって、怒りや悲しみを消すこと」だと思ってしまうことです。
禅の言う「あるがまま」とは、むしろ逆です。
- 理不尽な目に遭って、身が引きちぎれるほど苦しいという事実
- 相手や運命に対して激しい怒りを感じているという自分の心
これを「泣いてはいけない」「前を向かなきゃ」と無理にフタをするのではなく、「今、自分はそれほどまでに深く傷つき、怒り、悲しんでいるんだ」と、その感情の激しさをごまかさずにそのまま認めること。 これこそが本当の意味での「あるがままを受け止める(受け入れる)」の第一歩です。
「納得する」と「事実を受け止める」は違う
「あるがままを受け入れる」とは、その理不尽な事故や災害を「仕方がなかったと許す」とか「納得する」ということではありません。
どれだけ時間が経っても、理不尽な事態に納得なんて永遠にできませんし、する必要もありません。
それでも人間は、悲しみや怒りを抱えたまま、立ち止まったり、引き返したり、少しだけ前に進んだりを繰り返しながら、「答えの出ないプロセス(途上)」をただ生きていくしかありません。
時間をかけて「ただ寄り添う」
白隠禅師をはじめ、過去の多くの僧侶たちも、疫病や飢饉で我が子や大切な人を失い、狂わんばかりに泣き叫ぶ人々にたくさん出会ってきました。
そのとき彼らがしたことは、「これは試練だから受け入れなさい」と教えを説くことではなく、ただ一緒に泣き、その絶望のそばに寄り添い続けることでした。
仏教の教えは、理不尽な出来事の真っ最中にいる人に「今すぐ心を整えなさい」と強制するスパルタな道具ではありません。
あまりにも大きな絶望や理不尽を前にしたとき、「日々是好日」なんて言葉は一度脇に投げ捨ててしまって構いません。
絶望し、怒り、泣き叫ぶ。そのぐちゃぐちゃになった心のありようのまま、今日という一日をどうにか息をして生き延びること。それ自体が、すでに言葉を超えた凄まじい「生の営み(あるがまま)」なのだと思います。
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