
Nature, in every season, always shines beautifully in its natural state.
この歌は、鎌倉時代の禅僧であり、日本曹洞宗の開祖である道元禅師(どうげんぜんじ)の歌です。
歌集『傘松道詠(さんしょうどうえい)』などに収録されており、「本来の面目(ほんらいのめんもく)」という題がつけられています。
歌の意味
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり
春は咲き誇る花、夏は山ホトトギスの初音、秋は澄み渡る月、冬は澄み切った雪の冷たさ——四季折々の自然は、いつだってその季節ごとのありのままの姿で美しく輝いている。
※「冷しかりけり」の「冷し」は、現代の「寒い・冷たい」という嫌な感覚ではなく、冬の極限まで澄み切った空気の清々しさ・清涼感を表しています。
「本来の面目」とは
題名の「本来の面目」とは、禅の言葉で「人間や物事が、生まれつき持っている飾りのないありのままの姿(真実の自己)」という意味です。
道元禅師は、特別な珍しい風景を詠んだわけではなく、「日本人なら誰もが知っている、各季節の代表的な景色」をそのまま並べました。
- 春になれば、自然と花が咲く。
- 夏になれば、自然とホトトギスが鳴く。
- 秋になれば、自然と月が清らかに照らす。
- 冬になれば、自然と雪が降って身が引き締まる。
その季節、その場所に素直に従い、余計な計らい(人間の都合や欲望)を持たずに「いま」をただ生きている。
人間もまた、あれこれ頭で価値判断(好き嫌い・損得・良悪)をせず、自然と同じように「ただありのまま、飾らずに生きることこそが、人間の本来の美しさ(本来の面目)なのだ」という境地を詠み込んでいます。
ノーベル賞受賞演説でも有名に
この歌は、1968年に小説家の川端康成がノーベル文学賞を受賞した際の記念講演のタイトル『美しい日本の私—その序説』の冒頭で引用されたことでも世界的に知られています。
川端は、日本人の持つ美意識や自然観の根底には、道元禅師のこの歌に表れているような「自然とひとつになり、ありのままを受け入れる禅の心」があるのだと紹介しました。
「平常心」や「非思量」、「思い通りにしようとせず、ただ流れるままを受け止める」という姿勢が、そのまま四季の美しさとして詠み上げられたような、澄み切った名歌です。
熱時熱殺過(ねつじねつさつか)、寒時寒殺過(かんじかんさつか)
「暑い時は暑さになりきり、寒い時は寒さになりきる」という意味で、「暑いのは嫌だ」「早く冬になればいい」などと頭で不満をこねるのをやめ、その季節の真っただ中に身も心もすっぽり委ねてしまうことです。
しかし、近年の危険な酷暑や異常気象に対して「暑さになりきりましょう」なんて、とてもじゃないですが言ってられません。生活も健康も脅かされますし、「困ったな」「参ったな」と思うのは切実な実感です。
「人間の都合」と言ってしまえばそれまでなのですが、禅が言おうとしているのは「困るなと思う自分を責めたり、無理に受け入れろ」ということではないのだと思います。
- 人間の都合(生活の視点)
農作物を守りたい、安全に暮らしたい、快適に過ごしたい、健康でありたい。
- 自然の営み(事実の視点)
気候の変動、台風、大雪、酷暑。自然には「人間を困らせよう」という意図はなく、ただその条件の中で現象が起きているだけ。
「大雪も長雨も困るなぁ」と溜息をつくのは、私たちが生きている人間だからこそ当然の感情です。
大切なのは、「こんなに暑い・寒い・雨が続くのはおかしい」「絶対に許せない」などと、天候と心の中で戦ってイライラを倍増させないことです。
「うわぁ、今年の夏も本当に厳しいな」「困った天気だなぁ」と、自分の正直な困り感や不快さを否定せずにそのまま認めつつ、無理のない範囲でエアコンをつけたり雨対策をしたりして、粛々とやり過ごす。
「嫌だな」「困るな」という自分の自然な感覚(人間の都合)すらも、「まあ、生きているんだからそう思うよね」と優しく認めてあげること。それもまた、ひとつの「ありのままを受け止める『平常心』のかたち」なのだと感じます。
「ありのまま」というのは、決して理屈で我慢したり自分を偽ったりすることではなく、「そう思う自分」ごと優しく包み込んであげることなのかも知れません。
季節の変わり目、寒暖差も大きくなる時期です。「シャカンカン、シャカンカン(且緩緩)」あせらず、ゆっくりと過ごしたいですね。
